「4.雑記」カテゴリーアーカイブ

12日まで

という緊急事態宣言が延長されるかどうかという話になっていますが(延長は間違いないでしょうが岐阜県がその対象になるかどうかですね)、大垣市は9月6日(月)から正常化するといっていた小中学校の授業、今週は先週と同じく午前対面授業+午後オンライン授業という形になったとのこと。はじめからそうすれば…という話はさておき、仮に緊急事態宣言が延長されたら13日以降はどうなるんでしょう。今、オンラインで授業をやっている県立高校の授業も困りますよね。今後の予定が立ちません。

今年の8月前半までは岐阜公園によく出かけたなあ。そのときの写真がたくさん残っていて。

 塾としては学校でも「対面をやっている」ということなので、対面授業で予定通り「2学期普通授業」を再開します。

こういうご時世で他県には出かけないので、地元を改めて見つめ直す機会にはなりましたね。

 秋は国私立高校が我々対象に行う「説明会」のシーズン。昨年に引き続き今年もオンラインで行うところもあれば、対面で行うところもあるようですが、今年もできる限りの高校の説明会をまわって説明を聞いてくる予定です。この説明会でだけお目にかかる皆さんもいらっしゃいますが、そういう方は私が昨年12月からどうなっていたか分からないんですよね…。入院中は「半身不随でどうやって説明会に行こうかな」と思案していましたが(入院中は時間が有り余るほどあったのです。いろんなことを考えていました。)、おかげさまで車に乗って歩いて普通に会場に行けます。本当に何事もなかったかのように。ありがたいことです。皆さんも健康管理にはじゅうぶんお気をつけください(と私が言えたものでもありませんが)

夏休みの学校の宿題をお盆までに

 例年通り今年も行った企画「学校の宿題をお盆前までに終わらせよう」、昨年はコロナ休校に伴う変則日程でこの企画をお休みしたから(昨年は夏休みが大幅に短縮された上に休み明けに「1学期期末テスト」があるというので、夏休みに「テスト対策」をやっていた記憶がある)2年ぶりか。幸い、1学期の様子から少しだけ「この企画、達成できるかな」と心配していた1年生たちが、全員達成できそうで何よりだ。「後回しにせず早く終えると清々しい」という体験を今後に生かしてほしい。残念ながら今年の夏は、これでこの後「旅行しよう」とか「お出かけしよう」というわけにはいかない世間の情勢で、お楽しみがないかもしれないのがかわいそうだが。

まだ梅雨時の岐阜公園。木陰があるので暑い時分にも歩くのに助かった。

 私が勝手に倒れて突然彼らの前から消えたのだが、退院してこの塾を再開して1年生と半年ぶりに再会する前、彼らは小学校6年生だったのだ。再開した当時も「成長したな」と感じたが、この夏でさらに成長してくれたように思う。この経験をステップに、2学期からも成長を続けてほしい。

これはいつもの散歩道。やはり木陰が続くので好んで歩いている。涼しくなるまでこの道を歩くかな。
落ち葉が多いので秋かと勘違いされそうだが真夏の堤防である。

 私のこの夏は昨年に引き続いて引き籠もりの夏。散歩に出かける以外は外出も控えている。本当は上高地やらの長野の高原や乗鞍やらの飛騨の高地に遊びに出かけたいところだし、最近の散歩習慣から県外の散歩場所を開拓したいところでもあるのだが、今はじっと我慢して近場ばかりを回っている。近場にもまた新しい発見がある。この前も近所を巡ってまた新しい発見をしたばかりだが、そろそろ飽きてきたかなあ。野球も見に行っていないが、ドラゴンズは見甲斐のない試合ばかりしているのでこちらは自然と「我慢」できるか…。2年続けてナゴヤドームにまったく行かないことになりそうだ(今はバンテリンドームナゴヤだったっけ)

 新型コロナウイルスの感染状況は悪化の一途でちっとも出口が見えない。昨春に大学生になった子たちは、まともな学生生活を営まないまま半分近くが過ぎようとしているのか。いや、就職活動などを考えると実質的にはもう半分の学生生活が奪われた計算かもしれない。貴重な日々をこんな状況下で過ごして…残念でならない。

 

吹き出し/実施概要は今月末までに

あちこちのサイトでよく見かける、

こんな吹き出しや

こんな吹き出し

どうやって作ってるんだろう、編集が難しいんだろうなあ、サイトの一記事にそんなに手間暇かけられないしなあと思っていたら、プラグインがあってそれを入れればいくらでも作れることを今日知った。さっそくこのサイトや塾の公式サイトのほうにも件のプラグインをインストールした。まだまだ簡単に使える機能を十分に使っていないことがよく分かった。調子に乗ってさっそく塾の公式サイトのほうに「よくあるご質問」のページを吹き出しをつけて作ってみた。ちょっと色がちかちかするかな。改善の余地有り。

 そんなことはさておき、岐阜県公立高校入試2022(令和4年度)の「各校の実施概要一覧」が今月末までに出されるはずだから、まもなくである。ここで独自検査をやるかどうか、やるならそれに出願できる要件は何か、何をやるのか、標準検査の内申と当日点の比はどうなるか、面接などテスト以外の検査があるかどうかなどがはっきりする。

今年は7月末が7/30(金)、7/31(土)という日程になっているから、いつぞやの年にあった8/1に新聞掲載(されたけど県教委は7/31に発表したんだからねっ)という裏技?が使えない。今月最後の平日が7/30、その日の県教委「発表」でも7/31には新聞等に出せるはずだ、県教委が変な情報解禁日を設定しない限り。こういう発表が期限ギリギリよりもかなり早めに発表されるというのを最近あまり見たことがないので(かつてはあった)、おそらく7/31(土)の朝刊に載るのだろう。その前の7/30(土)にネット上に載ったら優秀という感じかな。

制度が安定してきた最近は内容に大きな変更をする高校も少なく(それでもちょっとずつ要件などが変わっている学校もある)、受験生(受検生)への影響は大きくないのかもしれないが、以前も書いたが本当はもっと早く、最低でも夏休みに入る前、できれば夏休みの高校見学の行き先が決まる6月までには発表してほしいものだ。大して変わらないならなおさら。

関東も関西も

 新型コロナウイルスの感染が拡大中だ。岐阜県でもしばらく一桁が続いていたのにまた二桁に乗ってしまった。近隣各県、特に愛知県でも感染が急拡大している。この調子だと関東(東京)だけでなく関西にも遅かれ早かれ「まん延防止等重点措置」か「緊急事態宣言」が出そうな勢いだ。この前、第12回岐阜県新型コロナウイルス感染症教育推進協議会(それにしても長い名前な上に日本語としてもどうなのか…)で決まった修学旅行に対する指針をそのまま当てはめると「まん延防止等重点措置や緊急事態宣言が発出されているところには行かない」という話なので、秋には県外で行けそうなところがほぼなくなっている可能性がある。修学旅行以外にも他学年では宿泊を伴う研修もある。これらがどうなるのか。まだまだ予断を許さない。岐阜県自体も愛知県の感染拡大の影響を受けつつあるように見える。私のところにはようやく今週、接種券が届いたが、ワクチン接種の予約は年代別でその先。果たしていつワクチン接種を受けられるのだろうか。

 今の調子だと夏の部活動の大会までは何とかやれそうだが、秋に立て続けに予定されている修学旅行や研修は実施できるかどうか不透明になってきた。嫌な世の中になったものだ。子どもたちがかわいそうだ。私もコロナ禍の前の世の中の状態がどうなっていたかを忘れてしまいそうだ。

24周年

 賢学塾は1997年7月1日に誕生して満24歳となりました。昨年末以来のことを考えると、この日をこうして迎えられたこと自体が奇跡。あの世に行きそうなところから帰ってきました。

 ご迷惑をおかけした皆さん、申し訳ございませんでした。心配してくださった皆さん、気にかけていただいた皆さん、本当にありがとうございました。来年は25周年か。四半世紀と書くと長いような途方もないような…今までの卒業生たち、塾生たち、そしてそのご家庭のみなさまに感謝です。特にこの春全員揃って私を励ましてくれた今春中学卒業の第24期生の皆さん、本当にありがとう。今あるのも皆さんのおかげです。

この前に続き、この前出かけた岐阜公園のもの。あまり人がいなかったので撮影はしやすかった。

開校当初中学生だった皆さんはもう30代後半なんですね。そう考えると自分も歳をとったんだなと改めて。普段はそんなことを全く考えませんが。隣の不動産屋さんとほぼ同時にここに建ったこの塾。道路の向かいは当時から和菓子屋さんでしたが、南隣は当時空き地でした。その後、今とは違って「石材商社」がやって来るんですが。さらにその南隣、信号角の時計屋さんは当時からありました。

個人的にはそういった開業当時の風景にあった斜めの焼き肉屋さんが更地になってしまったことが今年前半のニュースというか事件の一つでしたね。退院してこの世界に戻ってきていきなり見た景色でした。知らない人のほうが今や多いのでしょうが、24年前、この塾ができたときから焼き肉屋さんはあったんですよ。今、この通りに並ぶ各キャリアの携帯電話の店はまだ1軒もありませんでしたが。その後、狂牛病の嵐も乗り越えてやって来られたのに、コロナ禍には耐えられなかったのでしょうか。事情は知りませんが24年前にここに来たとき、既にあった風景がまた一つ消えて寂しい限りです。

「24年前にここに来た」と書きましたが、実は私自身の生まれが「大垣市福田町」なので「来た」というよりも、幼少の頃、過ごしたまちに「戻ってきた」「帰ってきた」という感覚が当時は強かったですね。小学校1年生まで宇留生小に通っていました。当時住んでいた家は今や高速道路の下になってしまいましたが。あの頃「国道(当時はバイパスと呼んでいた)の向こうにこんもりした森(神社)があるなあ」と思って家の窓からぼんやり眺めていた辺りに私は大人になってから塾を建てたのですから、人生がどうつながるかは分からないものです。思えば当時は周りが田んぼばかりだったから見渡せたんですね。今でこそ、世知辛い世情からでしょうか「貸店舗」と看板が掲げられた空きテナントがそこかしこにありますが、24年前には塾にできるような貸店舗はあまりありませんでした。そう考えると24年前は今よりは景気がよかったということでしょうか。あの当時もバブル経済の後始末が尾を引いて結構大変だった記憶がありますが。それはさておき、開業するに適した場所がなかなか見つからないというので、この土地を買って建物を建て、開業することになりました。最初は1階の母屋だけ。後に2階の教室を付け足すのでこの構造に。

おかげさまで開校当初から生徒さんには恵まれていました。今見ても開校当時の広告は拙さと手作り感満載で顔から火が出そうですが、それが逆によかったのかもしれません。途中、隣の「石材会社」はできてすぐに合理化とやらで撤退してそこに京都から大手の塾が入り(今とは違う塾)、また去って行きました。今、電器屋さんになっている信号の角はもともと工具店だったのですが、それもなくなり、その建物がリフォームされて今の電器屋さんになりました。あそこが空き家だったとき、ある市議会議員の選挙事務所として使われていたこともあったかな。近所のスーパーは「ヤナゲン」だったのが「平和堂」になりました。近くのマンションは後から建ちました。さっきも書いたように携帯電話各社の店が並んだのも後からです。当時からこの通りで営業している塾はもちろんウチだけですが、塾を除いてもこれだけ景色が変化しました。こう羅列してみてようやく24年間というものの重みが実感できました。

 授業で「私が倒れない限りこの塾は続く」と昔から言っていましたが、昨年末、本当に倒れてしまいました。幸いなことに今、倒れても続けることができています。いろいろな皆さんのおかげです。この幸せをかみしめつつ、来年の25周年へ、そしてその先へと歩みを進めていきます。

換気扇

 大変役に立っている。この塾ができた当初、というかほんの数年前まで黒板を使いチョークで書いて授業をしていたので、換気扇は絶対に必要だった(ないと教室がチョークの粉で…)。やがて電子黒板代わりとしてプロジェクタを使うようになり、教室にPCを置くようになってからは黒板・チョークを卒業してホワイトボードに移行したから、しばらくは換気扇の出番も(掃除のときや講習やテスト対策時の食事どき、生徒入れ替え時以外)あまりなかった。

久しぶりに近所を歩いて出かけたときのもの。児童公園のような「都市公園」まで。その近くの水路。ようやく鯉の姿を写真にちゃんと収められた気がする。分かるかな?

 が、世間がこのコロナ禍である。換気をすれば全てを防げるわけでもないだろうが、少なくとも三密の一つである「密閉」は避けられる。三密のうち密集・密接については教室の座席を空けることで昨年から対応している。消毒液はもちろん備えてある。換気については窓を単に開けるだけよりも、吸気口を確保し(これも建設当初からついていた)、換気扇で強制的に換気するのがよいだろう。これからの季節、エアコンを運転しながらの換気になるから、理想は今流行りの「換気しながら運転してくれるエアコン(エアコン自体が外気を取り入れる外気導入カーエアコンのようなルームエアコンだ。車に当たり前のようについているこれがなぜもっと前から注目されなかったのか疑問だが)」なのだろうが、その次に理想的なのはこの換気扇だろう。窓を開けていたからと言って本当に換気しているかどうかなかなか体感できないが、吸気口を確保して換気扇を回していれば確かに換気していると空気の動きで感じられ、余計な機械で計測しなくも実感できる。

散歩中、たまたま遭遇したので。退院後の散歩でも何度か撮影したかな。もう少し長くこの鉄道のお世話になるかもしれなかったが(定期券や回数券などを調べていた)意外に早く車に乗る許可を警察からいただけた。そういう意味では入院中の自分自身の想定よりも早くここまで来ているんだなと感慨深い。

 というわけで対面授業に戻っている今、授業中はがんがん回している。電気代が気になるが、去年の夏にもこのスタイルは経験済みだから想定の範囲内には収まるだろう。夏の暑さが去年並みで済めば…。

少年の日の思い出

といってもクジャクヤママユの話ではない。子どものころ、よく連れて行ってもらった場所に今日は昼から行ってみた。畜産センター公園。

何せ二桁もいかないころの幼いころの話で記憶も曖昧だ。こんな感じだったっけと思いながら歩く。駐車場に車は複数止まっていたが、公園の中に入ると誰もいない。

ゴルフ場みたいだが公園である。

と思っていたら芝生広場の木陰に幼い子を連れた母親らしき方を見かけた。あとは工事か作業の人。ハイキングコースも回れば距離も出そうだったが、今日は止めておいたというか柵がしてあった。通行止。

最近人気のメタセコイアの並木だろうか。結構な太さだからメタセコイア並木がブレイク?する前から植えられていたのだろう。
道路を挟んだ向かい側。こんなところに薬科大の薬草園があるとは知らなかった。

ここでは結局、2000歩ほどにしかならなかったが、他の場所に移動して午前とあわせて1日合計1万歩は達成した。まあそうまでして歩きたいなら久しぶりに町内の公園に徒歩で出かけたらどうかと自分でも思ったが。今度そうしよう。春のときとは沿道の景色もだいぶん変わっているかもしれない。

再生、賢学塾

今日、久しぶりに外の掲示を出してみた。看板を変えてから、特に2階の上の看板を生かす意味で2階の正面の窓はおとなしくしていることが多かったから。

看板と言えば、前の電話番号がなくなって看板から電話番号を消して、それっきり外に向かっては電話番号を示すものがなかった。看板屋さんに看板の電話番号を消してもらったのは4月。それもあって新しい電話番号(ここに行き着くまでにも紆余曲折があって時間がかかったなあ)を掲出することにしたのだった。0584-92-5965、「地獄の向こう」とも読めるこの新しい電話番号を個人的には結構気に入っている。病という「地獄」の向こう側へ飛び越えて新しい世界を作るこれからのこの塾を、この私を見てくださいという前向きな感じがしていい。「急にご苦労、ここです」とも読める。あの日(2020.12.24)我が家に駆けつけてくれた救急隊員の方たちにかけたい言葉。あのとき初めて私は救急車というものに乗ったのだった。救急車→病院と全ての手際がよかった。私が今、こうしていられるのも関係する皆さんのおかげだと感謝している。「くじ、ご苦労、5等でした」とも読める。当たりくじを引くのは簡単なことではない。まあ5等が末等ではないかもしれないし。「ご苦労、子どもたち」とも読める。本当に彼らはよくやっている。番外編としては「邦子、黒子」とか「こくのあるロゴ」というのもある。いずれも意味が分からない。ちなみに5965はデジタルな書体だと上下逆にしても同じになるはず。

さっそく新電話番号の入った名刺も作った。便利な時代だ。すぐにできて届いた。これで前の電話番号のところをボールペンで線を引き訂正した格好の悪い名刺ともようやくお別れである。

古戦場跡とテスト対策と

学校で中1・2(現中2・3)が3学期の期末テストをやっていた頃はまだ病院の中だった。回復期リハビリ病棟で退院はまだかなと(現実を伴って)考えていた頃だ(自分の身体の現実を伴わない退院願望は1月中旬にあった。あの頃は急性期病室の環境に絶望して早く脱出したいと思ったのだ。その後、同じ急性期でもマシな病室環境に変わって気持ちが落ち着いたが)。3学期の(中1・2)「期末テスト対策」の時期というと回復期病棟内を必死に歩いていた頃だ。あんまり必死に病棟内を歩いているという報告が上がったせいか、担当医から特別な許可が出て病院の建物外に出て敷地内を少し歩いたりもした(コロナ禍のため入院患者を外に連れ出すことは御法度だったようだ。普段担当でない理学療法士が驚いていたが「ドクター指示」の一言で納得していた。コロナ禍前はそういう機会もあったそうだが)

本文とは全く関係が無いが、先日訪れた古戦場跡だ。小学生のときから何度も来ているから周辺の事情もよく分かる。が、「陣場野」と呼ばれるこの陣地跡もだいぶん雰囲気が変わった印象。コロナ禍が無ければもっと観光地として売り出せたのだろうか。
一番変わったと言えばこれだろう。この施設はまだできたばかりのはず。中には入っていない。またコロナ禍が収まったらゆっくり中も見よう。

外を歩くというその日がちょうど寒い日にあたって、暖かい病棟内(冬でも昼夜問わず24~25度はあったようだ)の生活に慣れていた私には少しの時間だが寒さが身に凍みた覚えがある。と同時に、担当医も語っていたが病棟内の平らな廊下とアスファルトや芝生が広がる外では歩く感覚もだいぶん違った覚えがある。その後の退院生活のためにもいい経験だった。退院してすぐはジョギングコースなどばかりを歩き、公道など凸凹道はなるべく避けていたかな。しばらくして公道を歩くようになり、今はまた、凸凹を避けているのではないが、公園中心の散歩だ。

関係ないシリーズでこれまた先日訪れた古戦場の決戦地の碑、高校の「日本史」で習う陸軍大将 宇垣一成が揮毫したことは以前から知っていたが(つまり建立が戦前)この日もまた見たのでパチリ。

そういうわけで、「テスト対策」というのが久しぶりだ。去年11月の2学期期末テスト対策以来となる。テスト対策をやると「ああ、塾の現場に戻ってきたんだな」と改めて実感する。今来ている子たちもよく頑張っているから、とてもやりがいがある。ありがたいことだ。この塾を開いて20年以上になるが、こういうことには恵まれ続けたといってよい。いい子たちだ。この春、高校にうかった子たちは、ありがたくも彼ら彼女ら自身が企画して集まってくれた。今思い出しても泣けてくる。高校でも定期考査の時期のようだ。元気にやっているだろうか。

これも関係が無いが敗軍の将の陣地。人気スポットでこの町が一望出来る。逆にこんないい場所に陣取って負けたのね…。

世間を見ると岐阜県の新型コロナウイルス感染者数が下げ止まりなのだろうか、以前なら多いと思われていた水準に「下がった」ところで止まっているようだ。秋には学校でもさまざまな行事が予定されている。夏には最後の部活の大会もある。それまでにはこのコロナ禍が収まっているといいが。

再会

 昨日の夕方、さあ、塾を出ましょうと車に乗ったそのときに、毎年訪問してくださる某私立高校のH先生が来られた。H先生とは先生の前任校の時代からのおつきあいだ。最初にお会いしたときは私もまだ若造の会社員だったからもう四半世紀になるだろうか。ここをご覧になったのか、風の便りか、私がこの数か月どうなっていたのかご存じだったらしい。お目にかかり、しばらくして先生が涙を。お騒がせいたしました。当の本人は自分が生死の境を彷徨って棺桶に片足を突っ込んでいたなんてこともそのときは知らず、病院で寝ていただけです。気付いた頃には左半身が動かなくなっていました。そして今はこうして普通に動いております。医者も脳の写真を見せながら「強運の持ち主」と言いました。このようにぴんぴんしております。生きてお会い出来て嬉しかったです。またよろしくお願いいたします。

これは2週間ほど前の隣の隣の市の桜の名所。当たり前だがすっかり葉桜。また歩きたいな。

 生きていてよかったなと思えることが最近がいろいろあったが、今日もまた、自分が生きていてよかったなと思えた瞬間だった。私はこの世にいるはずだ。ここはあの世ではないはずだ。振り返れば4か月前にはこうやって普通に歩いて左手も動かして普通に車を運転もしている自分が全く想像出来なかった。どうやってこの先、動かない、起き上がることもできなかったこのからだとつきあっていくのか、これでは塾屋を続けるのはもう無理かなと病院のベッドで半ば絶望していた。日々是前進。明日は明日。また頑張ろう。

これも同じ2週間ほど前に撮った隣の隣の市の市民公園。こういうご時世なので近場の公園に出かける人が結構いるようですね。

最近はここには書いていないが日常的に散歩は続けている。家の近所のスポーツ公園で5,000歩ぐらい。5.0km/hはもう当たり前になった。たまに5.1km/hが出ると喜んでいるが、速さは目標にしていないから強くは意識していない。最近速いのは体力がついてきたからなのか、写真を撮ったり寄り道していないせいなのかは分からない。自分では同じ調子で歩いているつもりだ。これからも5,000歩/日を目安に歩いていきたい。散歩だけでそれだけ歩けば、生活場面もあわせた1日トータルで1万歩近くにはなっていると思う。