「6.脳幹出血」カテゴリーアーカイブ

脳幹出血からの帰還22  入院時の思い出(3)

 入院時は(特に回復期病棟では)「快適」だったと前に書いたが、そうでもないときもあったと言えばあった。

 あるとき隣の患者さんが病室の入り口付近で倒れてしまった。彼は松葉杖をついている整形外科?の初老の患者だったが(回復期リハビリ病棟にはいろんな病気怪我の人が入り乱れていた)、車いすから松葉杖に変えてしばらくしての「事件」だった。派手に倒れ(杖が滑ったようだ)、廊下中に音が響いたため、看護師さんたちがすぐに気づいたから私が「通報」するまでもなく、私は病室にこもってなるべく邪魔にならないようにしていた(そのときは食事前だったからいつ移動しようかとちょっとやきもきしていたがスタッフがたくさん来てその場で出血した跡もすぐに処置していた)。ほどなく先生も来て指示を出していた。

 彼は倒れたときに傷口を強打してしまったらしく、夜中も痛がっていた。もともと独り言の多い人で(聞こえてきた)、何か話していると思ったらテレビに向かって突っ込んでいたり(イヤホンをつけて見ているのでそれがテレビに対する反応だとはしばらく分からなかった)、一人で「さあ食事だ。(ホールに)行こうかな」「今日(のテレビ)は何をやるかな」などと何かにつけて口に出すのが好きな人で、病院内では話しかけられたときだけ口を開け、必要なこと以外ほぼ黙って暮らしていた私とは正反対の人だ。

病院ですから

 その彼が痛がっていた。うめき声が昼夜かまわず突然聞こえる。本当に痛そうだ。うるさいと言うより突然発せられるうめき声にどきっとしてこちらも痛くなりそうだった。それは看護師さんたちも心配したらしく、彼の隣の私のこともステーションの朝のミーティングで話題になっていた(当時4人部屋に偶然彼と私の2人だけという期間があった。退院が重なったのだ)と、ある理学療法士さんに教えてもらった。「大丈夫ですか」と声をかけてくれる看護師さんもいたが「病院ですから」と答えていた。それは半分本音でもあった。ここは病院だ。そういうこともあろう。私が退院する頃までには彼のうめき声もほぼ収まっていたが、その後どうなったのだろう。知る由もない。静かに暮らしていたという私でも退院前にはすすり泣いたりしているのだから(聞こえていたかどうかは不明だが)、大部屋での入院生活はまさにお互い様だ。

叫ぶ人・声の出ない自分

 うめき声と言えば、回復期リハビリ病棟に移転する前、まだ急性期の段階だった頃は遠くで叫んでいる人の声を聞いた。廊下にも響く声だったのでよく聞こえたのだ。その人本人には会ったことがないが、高齢者男性の声だったようだ。急性期の段階だった私と言えば、まだ声が完全でない頃、「森進一です」(おやじギャグ)と言っていた頃だ。声がかすれ、のばす声も続かない。脳幹出血(脳卒中)になると(発症した部位にもよるのだろうが)のどにも影響があり、食べるときの飲み込みが悪くなるだけでなく(だからしばらく鼻から管を通されて栄養を得ていた。その後はとろみ食。とろみのない水をこっそり飲んでむせたこともある)、声も出にくくなるのだ。そんな私にとって彼は「うるさい」というよりも「うらやましい」感じだった。廊下にも響く大声で看護師さんその他を呼びつける(ナースコールのボタン要らなく無い?)その男性の出していた声を、私は出したくても(出すつもりもないが)出せなかった。今はどうだろう。大声を出す場面がないが(家で大声を出していたら近所迷惑だ)、声質は普通に近くなったから、出せるかもしれない。あの当時は動かない左半身同様、のどもこのままおかしくなったままかなと半ば諦めていた。「この声のほうが病人らしくていいかな」と周りの人たちには半笑いで語っていた記憶がある。声の出ない私がどうやって現場復帰できるだろう。絶望しかなかった。もともと地声の大きな私だったが、元の声がどんなふうだったかも忘れていた。

脳幹出血からの帰還21  入院時の思い出(2)

さまざまなスタッフ

 入院していると病院スタッフも様々だと分かる。医師や看護師さん・准看護師さんだけでなく(誰でも思いつくだろう)、理学療法士さん、作業療法士さん、言語聴覚士さん(これらはリハビリに携わる人たち)、介護福祉士さん(を見かけたが看護師さんのお手伝いか)、放射線技師さんとか検査技師さん、歯科衛生士さん(入院患者の歯磨き指導に現れた。「今度会ったら下で歯石を取ってあげる」と言われたがその機会は入院中にはなかった)、社会福祉士さん(は相談員という立場でこのコロナ禍の中、患者になかなか会えない家族のために動いてくれたようだ。患者本人の私は数回会っただけでよく知らないが)という資格を持った人に限らず、掃除の人、食事など運んでくる人などもいる。入院しているときには気づかなかったが、下の階で会計や事務をやっている人もいるだろう。どれくらいの数がいるのだろう。患者と同じくらいかそれ以上かもしれない。それでも看護師さんはいつも忙しそうにしていた(それで自分のような性格だとナースコールは時々ためらわれてしまった。どうでもいい(と私が思う)ことですぐ呼んでいた患者もいたが…)

役割分担

 それぞれの役割分担も明確だ。あるとき手の指の皮をすりむく怪我をしているのを作業療法士さんが発見したが(私の手を触っていて見つけた、家庭でも処置しているような怪我ともいえない怪我。何せ自分では言われるまで気づかなかったのだから)、わざわざ看護師さんに処置してもらった。そのとき使っていた道具に作業療法士は感心していた。病院にいても初めて見たと。

 別のときは、さあリハビリに行こうという段階になって理学療法士さんが私の発熱に気づいた(私にはこれまた自覚症状がなかった)。これもすぐに看護師さんを呼んで体温計測し直し(実際、熱が出ていた。そのときはまだ37度台だったが)、その日のリハビリは中止、以後しばらくは安静にしていることになった。私の発熱を聞いた医師もしばらくしたら飛んできて、看護師さんたちに何やら指示を出していた。

 主治医が回診のとき「平坦な道ばかりでなく外歩きもしなさい」と私に言って(そのときの私は杖なしで病棟内を歩けるようになっていた)周りについてきた理学療法士(私の担当では無い人)その他もそれを聞いていたら、数日後に外歩きが実現した。コロナ禍の中、入り口が「関所」のようになっていたので外歩き自体ほとんど無いことのようだが(平時はやることもあるらしい)、「ドクター指示」だからと特別扱いになったらしい。主治医が「副院長」だったから特別だったかもしれないが、かくて私は寒い中(本当に寒かった)外歩きを2度ほど経験した。主治医の言うとおり、病院の廊下のように平坦ではなく、段差も芝生もあるので貴重な体験だった。「関所」にいた職員たちは「ショック療法ですか?」と理学療法士に言い、半分笑っていたが。

脳幹出血からの帰還13  入院時の思い出(1)

作業療法士のTさん

 入院時には多くの人にお世話になったが、特に作業療法士のTさんには大変お世話になった。私がまだ意識がはっきりしない頃からのおつきあいだった。彼には私の動かない左腕や手によく働きかけてもらった。彼には3月退院、5月復帰などという(今となっては無謀とも思える)プランを彼に話していた。実際、退院はその3月よりも早まり、リハビリテーション室で彼に会ったとき(彼は急性期病棟担当のようなので退院時には私の担当ではなかった)には「まだ高校入試終わってないですよw」と声をかけられもした。私自身が「公立高校入試が終わり、発表の頃」という退院プランを彼に語っていたことがあったからだ。教壇に立つ日が来れば、彼をはじめとするリハビリテーション室のスタッフの話をするだろう。医療に関心があるが、医者になるのはハードルが高いなら、そっちを目指すのはどうかと言うかもしれない(一番主体的に動くのはやはり医者だ。みんな医者の指示で動く)。恥ずかしながらリハビリテーションのスタッフにどういう役割分担があるのか、「理学療法士」「作業療法士」「言語聴覚士」など資格の名前は知っていたが、以前は細かく説明できなかった。今なら実体験を交えて説明ができる。ほかにも病院スタッフには資格のある人ない人、実に様々な人がいるんだなとこの入院中に勉強した。その日常の苦労もまた見てきた。どんな仕事も大変なお仕事だと思う。

3週間ぶりの風呂

 ある日、彼は私を見て「風呂に入ってない?」と気づいてくれた。入院してまだはっきりとした意識がない頃にストレッチャーに載せられてシャワーを浴びたことは覚えている。それ以来、身体は拭けども風呂に入っていない。数えたら3週間以上経っていた。病院に入院するということはそんなものなんだろうと半ば諦めて看護師さんにも尋ねてなかった。自分には未開の地への渡航経験とかないので、そんなに長く風呂から遠ざかったことはなかった。入院途中、なぜか発熱してしまい点滴生活に逆戻りしてしまった時期もあったから、風呂に入るタイミングを逸してしまったのだろう。やがて看護師さんに話が伝わり、即座に風呂に入れることになった。さすが3週間も入っていないと皮膚(ではないのだろうが)がぼろぼろと落ちていく感覚だった。一番うれしかったのはやっと頭が洗えたことだ。なお、この頃は出入りこそ介助必要、浴槽には入れずシャワー浴だったが、それでも人生で最も快適な風呂だった。

回復期リハビリ病棟へ

 その後、回復期リハビリ病棟への移転が決まる。それは(私にとっては)唐突だった。決まったと知らされてその日の午前中には車いすに乗って移動した。当時もうすでに昼間のトイレなどには歩行器を使っていたのだが。

脳幹出血からの帰還7 リハビリの日々・絶望と希望と(4)

「快適」な病院生活・独歩

 1月末頃、回復期リハビリ病棟への移転が決まる。ここからの病室生活は言い方は変だが「快適」だった。病室は窓際のため、近くには運動施設や学校、遠くには子どもの頃から見てきた山々という具合にいい眺めを見て暮らした。移転した当初こそ、まだ介助が必要だというので週2回水土と決められていた風呂も、すぐに「フリー」つまりご自由にどうぞとなり、そうなってからはほぼ毎日入った。やがて歩行器もいらなくなり、独歩で病棟内を移動できるようになった。

数独にはまる病室での暮らし

 病室内での生活、意識がはっきりしてしばらくは暇をもてあましていたが、家族にタブレットを差し入れてもらい、いろんな記事を読んだり、言語療法のリハビリ(頭を鍛える)で数独を知ってからは(それまで存在は知っていたがルールなどは知らなかった)それで暇をつぶすことができた。それ以来のことなので数独は今でも初心者だが。

歩き回る患者

 また、自主練として病棟内を積極的に歩いた。一日5000歩をめどに病棟内をぐるぐる何周も何周も歩いた。今から思うとうっとおしい患者だったかもしれない。病棟内の廊下にいつもいるんだから。日によっては病棟内を20周ぐらいしたときもあった。ぜんぶ記録につけている(「これから自分でも歩いてね」と記録用紙を用意してくれた理学療法士さんがいた)

半信半疑

 家族にはメールで自分の回復状況を伝えていたが、半信半疑だったようだ。自分をよく見せよう、退院したい、安心させようというのでそういうメールを送ってくるんだろうと。確かに1月の中旬頃は絶望が勝っていたので、実態も伴わないままそういうメール(早く退院したい)を送ったこともあったが、先述したように回復期リハビリ病棟の生活はまあまあ「快適」だったので、そのつもりなどまったくなかった。むしろ歩き回る自分を見て退院のスケジュールを進めてくれたのは病院スタッフのほうだった。すすめられるままに、主治医も許可して2月20日の退院が決まった。

脳幹出血からの帰還6 リハビリの日々・絶望と希望と(3)

回復のペース/車いすから歩行器へ

 1月下旬以降の回復のペースは(周りの想定以上に)速いものだった。1月の終わり頃には車いす移動から歩行器に変わる。はじめはこわごわ歩行器に頼って歩いていたが、数日で歩行器が邪魔と言うくらいの歩き方になった。左の握力は右の半分ながら、万歳すると左の腕がまともには上げられない中、しかし以前よりも諸作業がまともにできるようになった。この頃、トイレも自分で行ってよいと言われる。塾の細かい事情など知らない本人は、このころ現場復帰への予定も立てて未来に希望を持った。病室も同じ病棟のナースステーションから遠い部屋に移り、周りの病人も重度でなくなり退院する人も見かけるなど、落ち着いた静かな環境になった。

回復期リハビリ病棟?

 この頃、スタッフの間では私の回復ぶりを見て回復期病棟への移動も検討されていたようだった。ただ、回復期病棟が当時混んでいるというので、病棟移転はすぐにはかなわなかった(回復期病棟に行くと日曜日もリハビリがあるなどよいことが多かった)

主治医との会話・自分の現実を知る

 そんなある日、リハビリを終えて歩行器でぷらぷらと廊下を歩いていると、主治医の先生に偶然出会った。回診や異常時(転んだときや熱を出してしまったときなど)に何度かお会いした記憶があって、この方が主治医というのは知っていたが、それは自分自身がしっかりし出した1月以降のことで、救急車で運ばれた身、それまでは主治医の先生が誰かも把握していなかった。偶然会ったついでに雑談を少ししたら先生が会議室用の部屋に案内し、PCに向かって自分の脳の写真を見せて説明してくれた。

ここはこの世か それともあの世か

見せてもらうとがっつり出血している。これでよく生きているものだ。先生も「強運の持ち主だ」と私に面と向かって話した。自分でもそう思った。そう思うとここがこの世なのかあの世なのか分からなくなる。自分は生きているのか。それとももうあの世に召喚されているのか。

脳幹出血からの帰還5 リハビリの日々・絶望と希望と(2)

体重激減・自分で歩き出す

 入院生活が1ヶ月を過ぎるころ、歩行訓練を始めた当初は満足な方向すら向いていなかった左足が、力をつけ始めて歩み始めた。といってもまだ本来の力はない。この頃のやせ細った脚をみて自分で驚いている。リハビリの途中、ヘルスメーターに乗ってみたら体重が健常な頃よりも10kg以上減っていた。たぶん、高校生ぐらいのときに見た数字。その事実に自分で驚く。この前まで鼻から管を通され、その後もおかゆや粉々に刻まれ原形をとどめない食事をとっていたんだから当然のことかもしれない。

希望と絶望のスイッチ

 この頃は「自分でも歩けるかも」という希望と相変わらずの絶望とにスイッチが日々入れ替わっていました。少し動けるためにベッドの中を動いて「無理」をして、落とした眼鏡を拾おうと身体を乗り出した早朝にベッドから転げ落ちてしまった。しかし身体が満足に動かないせいでベッドには戻れず、這いつくばってどうにか体勢を立て直すも立ち上がれず床に座り込むしかなくなってしまった。ナースコールはなんとかでき、落ち方がするっとしたもので強く打ったとかではなく(ただ、レントゲンなど検査はした。自分としては「ちょっと落ちた」程度だったのだが周りは大事になり、家にも病院から電話があったそうで心配したとのことだった)、大事に至らなかったものの、さすがにこのときはナースにも叱られた。

装具/平行棒内での歩行

 車いすで動き回れるようになる少し前、病状説明で来院した家族と面会する機会があった。リハビリの様子を実際に紹介するというので平行棒に挟まれたわずか数mを装具をつけて歩いただけで家族は拍手していた。歩ける、歩く練習をしているとは思わなかったらしい。

脳幹出血からの帰還4 リハビリの日々・絶望と希望と(1)

 初期の頃(私にとっての初期とははっきりとした記憶のある1月中旬以降)は絶望のほうが大きいものだった。寝たきり、何をするにもナースコールが必要、おむつをはき、下の処理もすべてお願いする立場だった。

絶望の中の希望・リハビリ

 棚にはいろいろと差し入れられたものがあったようだが、自分だけではそれにも手が届かない。食事も自分でとれないので鼻から胃に管を通され、それで栄養を得る日々だった。病室には同じような境遇のお年寄りが3名。家族との面会もできず(コロナ禍のため、家族といえども面会は厳しく制限されていた。病院からの病状説明や貴重品の持ち込み以外で家族に会うことはなかった)、孤独に生活していました。毎日行われていたリハビリだけがそういう生活の中では救いの時間でした。次第に平行棒の中、不十分でも歩けるようになり、手の動きも(不十分ながら)戻っていく自分がうれしく感じられました。

寝たきりから車いすへ

 この頃、私は「前(健康だった頃)と比べて」という発想をやめた。どん底の全然動かなかった自分と比較してどうだという発想に変えたのだった。そういう発想をすると気分が楽になった。塾の後処理はしっかりやったと面会時に家族に聞かされ、仕事の心配はせずリハビリのことだけ考えた。やがて車いすで自分で移動することができるようになり、寝たきり生活から解放される。そうなると、今まで気にしてこなかったところに目が行くようになったのだった。

家族からの手紙に涙

 まず棚に行き、差し入れの品々、そこに入っていた家族の手紙を読んで涙した。気がつけば顔はひげで覆われている。つい先日まで鼻に管を通されていた男…。もともとあまり自慢のできる顔ではないが、手入れされずにここまで来てさらにひどくなっている。もみあげは短い方だったが、これを機に面倒なので長くすることにした。差し入れられていた電動ひげそりを自分で手にとって、鏡の前で自分でひげを剃り始める。歯磨きも自分で洗面所に行き、するように。それまでは食後にナースコールをして(食事自体が寝床を起こしてテーブルをセットしてもらって食べていた)ゆすぐ水をコップに用意してもらい、寝床でこなしていたのだった。車いすで動いていると歩行器で動く人やら杖で動く病人と病室や廊下ですれ違う。自分もいつかああなれるのだろうかと想像する日々、この頃はまだ車いすでの生活を覚悟していた。

脳幹出血からの帰還3 それはクリスマスイブの早朝に起こった(3)

意識がはっきりする

 はっきりと昼夜が区別でき、現状が把握できるような意識が戻ったのは1月半ば近くだろうか。その頃私はHCUから一般病室に移っている。病室で寝たきりの自分。左の手足がほとんど動かせない自分(この頃は本人も動かない左手足をどうつきあって生きていくのだろうと想像したが、家族も家に介護ベッドを置く、車いすの積める車に改造するなどさまざま相談をしていたようだ)。そんな中、リハビリは続きました。その前もリハビリは行われていたようですが「半分寝たような状態」(by担当の作業療法士さん)だったので本人に記憶はあまりないのだった。

動かない手をマッサージする作業療法士さん

 動かない手に懸命に働きかけてもらった。あまり動かない脚でもあきらめず歩行訓練を始めてもらった。自分の場合、幸いだったのは左の手足が動かないと言っても感覚は左も右とほぼ変わらず残っていたこと。自分が脳で命令しても微妙にしか動かないと思っていた手足が少しずつではあるものの反応してくれるようになった。

脳幹出血からの帰還2 それはクリスマスイブの早朝に起こった(2)

本人は入院してその後長い入院生活を送っただけだが、残された家族は大変だった(らしい)

代わりがいない・事情が分からない

 個人で一人で塾を運営していたので代わりの人はもちろん、内部を把握している人もいない。そもそも塾のメインPCに誰も入れない(パスワードは本人だけが知っている)。十数年前まで一緒に塾をやっていた妹が動員された(ということらしい。この項はすべて退院後聞いた伝聞)

本人不在のため塾の閉鎖が決まる

 妹の決断で塾はいったん閉鎖と連絡、ただし中3生だけはこの時期に放り投げるわけにはいかないと地元大手の塾の社長に連絡して頼み込んだようだ。その社長の度量の大きさで海のものとも山のものともつかない妹にすぐ面会してくれ、事情を察してもらい二つ返事で引き受けを約束してくれたとのことだった。

残された家族による「後始末」

 その後はいただいた教材費や授業料の返金(塾生のご家庭全部)の振込、各種業者さんへの連絡など大変な作業が続いたようだ。塾をいったん閉鎖しなければならないのだから当然だ。結果的に本人の不始末の後片付けを家族に全部背負わせてしまった。本人が会社員なら、組織の一員なら周りがこういう仕事のフォローをしてくれたのかな(サラリーマンではないので分からない)

混濁する意識

 当の本人は混濁しながらも意識が皆無だったわけでなく、昼か夜かも分からない病院の奥の病室に寝ながら(だから日付を聞かれるとよく間違えていた、この頃)、「今日から学校の冬休みか」「これで冬期講座期間の半分が終わってしまった」などと勝手に心配をした。左半身を引きづりながらオンラインで授業をする自分の夢も見た(現実にはそういうことが想像できる身体ではなかった)

脳幹出血からの帰還1 それはクリスマスイブの早朝に起こった(1)

 これから記すのは不覚にも脳幹出血を起こしてしまい、約2か月の入院生活ののちどうにか生還することができた中年男の実話です。同じ病で苦しむみなさんの何かのお役に立てればと(うちの家族も私が不在の間、脳幹出血で検索しまくったそうです。私は寝ていたので知りません。)、ここに自分の体験を記します。

いつも通りの(ちょっとだけ頑張った)早朝

 それは世間がコロナ禍で揺れる年末、クリスマスイブの早朝に起きてしまいました。

休みの前(当日)の朝

 その男、特に予定はありませんでしたが、この日を本格的な冬期講座に入る前の憩いの日として休みにしていました(後から家族に指摘されたが、それが結果的には本人不在の塾の「後始末」に若干の猶予を与えて良かったようです)

シチューの晩飯

 その日の「晩飯」はシチューでした(のちに吐くことになるとはこのとき思っていなかった)。私はいつものように家族が作りおいてくれていたそのシチューその他の食事を晩酌しながら胃の中に入れ(通常ビール3本程度。自分ではこれでも若い頃からは減ったなあと思っていたあの頃)、その後、老父が起き出してくる時間帯(要するに早朝)まで食べていた。

よろけた瞬間・遠くに聞こえる救急車の音

 食事の後は風呂というのはいつもの通り。私はトイレによった後、風呂に行き、上がった後いったん脱衣所でパンツだけはき、風呂場に戻って窓を開けた(湿気防止のため)。その瞬間、からだがよろける。手すりなどにつかまってなんとか体勢を立て直して脱衣所に戻るが、からだがおかしい。立て直せない。その場(脱衣所)に倒れ込んでしまった。それでもなんとか立て直せないかと一人もがくがもうできない。仕方なく叫び声にもならないうめき声を上げる。異変に気づいた2階の老母が脱衣所を開けたらパンツ1枚の息子が倒れてうめき声を上げている。この瞬間、老父は「脳卒中・半身不随」と思い(親族に経験者がいた)、そう口にしていた(のは遠くなる意識の中、聞いていた)。ほどなく救急車が来て運ばれるのだが、その途中、家の外に出たところで吐いている。そう、さっきのシチューその他だ。救急車に乗せられたのも覚えている。その乗り心地がよくなかったことも、おなじみのピーポーピーポーの音とともに記憶にある。次第に混濁する意識の中、病院に着いたところまではなんとなく記憶にある。その後、検査されたことも。次の記憶は病室の中、酸素マスクをつけられ寝ているところだった。

血圧・上がなんと220も

 ここからは後で聞いた話だが、担がれたときの私の血圧は上が220を超えていたそうだ。高血圧で悩む老父も見たことがない値。私も後にそれを聞いて戦慄した。独立して20年以上、公的な健康診断にも行かず(行くように促すお手紙は町からも来ていた)それまで血圧など測っていなかった(家に老父が使っていた血圧計はあったのだが)