以前も書いたが「強運の持ち主」とは担当医に贈られた言葉だが、私の脳の写真を見たという回復期病棟で担当した理学療法士さんも、その出血量の多さに驚いていた(これも書いたか)。私自身も入院中盤に私自身の脳の写真を見せてもらい、出血の状況は確認した。確かにひどかった。一言で「脳出血」と言ってもごくわずかの量で回復も早い人もいるそうだが、全然そんな人の画像じゃなかったし、実際すぐよくなるような身体ではなかった。急性期(入院初期)の私はそんなふうだったが、回復期リハビリ病棟の私は、独歩杖無しで歩き回ったり手の動きも日々改善したりだったので、倒れた最初の病状とのギャップが大きかったのかもしれない。
倒れた当初、家では電話が鳴るたび病院からの悪い知らせではないか(コロナ禍のため、家族でも付き添いや見舞いは原則出来なかった)と思ったほど、病院での説明では生死について厳しいものだったらしい(これはどこかで書いたな)。そしてその山を越えて命はどうやら大丈夫そうだということになった後も、寝たきりで過ごす覚悟は必要だったらしい。生きているだけで幸せ、初期はそういう段階だったようだ(私が昼夜構わずというか外の様子も分からないから昼夜がなかなか分からずよく眠っていた期間である)。私自身、年末年始は管をたくさんつけられての入院生活だったのだが(当たり前だが病院では元日だからと言って特別な何かをしてくれるわけではない。食事が出ていた人は食事に正月らしさがあったのかどうか知らないが、そのとき私は食事もしていない。寝たきりで管から栄養を入れていた)、家族にもひどい年末年始を送らせてしまったなと思う。だいぶんたって私が病院からのメールで(リハビリのおかげもあって)順調に回復している様子を伝えるようになっても、家の人間たちは半信半疑だったようだ。命があるだけ幸せという状況からそこまで本当に快復したのかと。左半身ほとんど動かなかった男がそこまで快復したのかと。そこには担当リハビリスタッフの皆さんのご尽力があったのだが。今は普通に動かせる。リハビリというのは凄いなと思う。全く動かなかった身体をここまで戻してしまうのだから。
大型連休に入る前、古くからの友人、いろんな業者さん、某私立高校の先生にもお会いした。高校の先生は飛び込みで偶然だった。そんなことを思い出したのは、お会いした人たちによってはそういう倒れた当初の状況から説明したりもしていたからでもある。先述した状況を思うと今の快復は当初から事情を知る人からは想像もできないことだった。私自身が生涯、動かない半身とつきあわなければならないもかもしれない、どうやって塾をやるんだろうと半ば絶望したのは入院期間の中盤だったが(逆に半身を引きずりながら塾をやっている夢も見たが)、それもこうして動けていることで今となっては取り越し苦労だった。普通に立って声を出して授業ができる。もちろん身体を引きずってはいない。自分が倒れて詳しく知ったが、世の中には命を拾っても後遺症で苦しむ方も大勢いる。自分は申し訳ないくらい幸せかもしれない。「強運の持ち主」だったのだろう。
そうそう、ある業者さんのところで賢学塾の初期の卒業生が働いていることは以前から知っていた。学校を出て同じ会社で一筋、よく働いているなと感心していたら現在産休だという。聞けば3児の母になっているそうだ。子どもを産んでも仕事を続けているようだ。幸せになってほしい。他にも父親・母親になっている卒業生は風の便りで聞くのだが、そういう話を聞くにつれ、この塾も長くなり、また私自身もそれなりの年齢になったのだなと思う。若い頃この塾を開校したときにはそんな先のことは全く考えていなかった。1997年夏の開校だから24年近くしか経っていないのだが、前世紀のことだというと古く感じる。
こんなことばかり書いてしんみりしているが、今日も散歩は継続している。最近は地元のスポーツ公園周辺で。純粋に歩くことが目的だから近場で済ませている。今日は子どもたちのサッカーやテニスで賑わい、駐車場の車が珍しく密だった(車が密でも感染はしないだろうが)。なんだか場違いな気がして(私も利用者なのだが)、管理棟がある正面の駐車場でなくて公園の隅の駐車場に車を移す。雨がぱらぱら降ったりやんだりはっきりしない天気だったので急いで歩くことを優先。写真も無し。健康器具も無し。その割には(5300歩余りなのはいいとして)速さが4.9km/hだった。真剣に歩いていた割には速さが出なかった(速さを強く意識してはいなかったが)。別に速さにノルマがあるわけではないが、ちょっと残念。